教科書は嘘だった!『日本書紀』に隠された「大化の改新」の不都合な真実とは?

2019年5月に新元号「令和」となりましたが、最初の元号が何だったかご存知ですか?

「大化」ですよね。「大化」と言えば「大化の改新」が思い浮かぶでしょう。

現在の教科書では「乙巳(いっし)の変」と呼ばれています。「乙巳の変」により日本の歴史は大きく変わりました。

ただ、教科書の記す「政治の中心が豪族から大王(後の天皇)に変わった」という意味で大きいのではなく、別の“あること”が大きいのです。何だと思いますか?

それがわかれば、不可解な「乙巳の変」の謎が解けます。

そこで今回は、『日本書紀』に隠された「乙巳の変」の不都合な真実について紹介します。

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「乙巳の変」とは?

革命やクーデタは理由や動機を探ってみると真実や真相が明るみに出るまず「乙巳の変」について確認しておきましょう。

「乙巳の変」とは、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した事件のことを言います。

以前は「大化の改新」と呼ばれていましたが、現在の教科書では「乙巳の変」と呼ばれ、「大化の改新」は646年に行われた政治改革のことを指します。

歴史研究が進んでいるため、教科書も徐々に変わっていきます。

ここまでの理解はよろしいですよね。

『日本書紀』に隠された「乙巳の変」の不都合な真実とは?

先に確認した教科書の記述を前提に歴史を学ぼうとすると、

「結局、乙巳の変は何だったのか?」

という疑問が浮かぶはずです。なぜなら、「乙巳の変」の影響について何も語られていないのですから。

教科書では

・翌年に「大化の改新」が行われ、大王中心の律令国家を目指した
・白村江の戦いで負けた
・中大兄皇子が大王に即位した

と断片的な知識が羅列されているだけで、それぞれの事象間における関連性が示されていません。

なぜ関連性が示されないのでしょうか?

『日本書紀』がそのような記載だからです。つまり、不都合な真実が隠されているということ。筋の通らない話には、大抵不都合な真実が隠されているものです。

『日本書紀』に隠された不都合な真実と考えられるのは、次のものです。

外交路線の変革のために蘇我氏が討たれたこと

世界地図を広げてみると歴史や社会の視野が広がり、世界の全体像が見える日本史は国内の出来事のみを見ていても理解できませんので、国際情勢にも目を向ける必要があります。

「乙巳の変」は国際情勢に絡んだ出来事であり、従来の外交路線の変革のために行われたものです。

当時の国際情勢は激動で、何と言っても唐が大帝国になったことが一番の脅威です。

唐は朝鮮半島と日本列島を征服しようと目論んでいました。その第一段階として、まず新羅と手を組み、高句麗と百済を滅ぼそうと計画します。

当時の日本は蘇我氏による全方位的外交でありましたが、これを危険視した人物が対唐路線へ変革したのです。変革のために蘇我氏が犠牲となったのです。

変革を話し合える状況ではなかった

ただ、ここで疑問に思いませんか?

変革ならば、国内で話し合って決めればよかったじゃないですか。

ただ、当時の日本では蘇我氏の独裁政権であり、同氏の意向に逆らえる状況ではなかったのです。(当時の大王は蘇我氏の傀儡でした。)仮に変革者が外国人だったとしても、蘇我氏は容易に応じなかったはずです。

そのため、変革には蘇我氏を倒す以外に方法はなかったのです。

「そんなことなら、べつに真実を隠すほどのことではないのでは?」というツッコミを入れる方もいらっしゃるでしょう。

もう少しお待ちください。

真実を隠す必要性は、次の真実にあるからこそなのです。

変革者が大海人皇子だったこと

変革したのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。

中大兄皇子や中臣鎌足ではありません。彼らは藤原不比等により『日本書紀』上で誇張されて登場しただけに過ぎません。そもそも中大兄皇子は親唐派であり、変革させる動機がありません。

つまり、『日本書紀』上の「乙巳の変」における2人の存在は虚構です。

なぜ「乙巳の変」に虚構が必要だったのか。

大海人皇子が天皇家とは関係の薄い人物であり、対外的に歴史的権威(万世一系のブランド)を主張するのに彼の活躍が不都合だったからです。※詳細は別の記事をご覧ください。

彼は外国人の血族である可能性があり、国際情勢に詳しく、「親唐では最終的に唐に飲み込まれる」危険性を先読みしていたものと考えられるのです。

『日本書紀』に「外国人が日本を指導し、天皇になった」と記述するとどうなるでしょう。歴史的権威が地に落ちますよ。だから事実を隠しておく必要があるのです。

また、彼は槍の名手でもありました。『日本書紀』では「乙巳の変」の際に「槍を持って隠れていた」との記述がありますが、槍を扱えたのは中大兄皇子ではなく大海人皇子です。彼が変革者に違いありません。

全方位的外交から対唐路線へ変革

ちなみに、「親唐では最終的に唐に飲み込まれる」がどういうことかイメージできますか?

これは共犯者を口封じに殺すのと同じ論理で、「唐が日本と手を組み、日本に新羅を滅ぼさせた後、唐が日本を新羅とともに飲み込む」というものです。

唐の目論む変動結果を図にすれば、次のイメージです。
親唐路線では唐の思うツボで危険であり、対唐路線へ変革する必要があったのです。

先述のとおり蘇我氏が全方位的外交を行っていて、親唐路線をやめようとしなかったために粛清されたのです。

後に起きた壬申の乱も同様の理由で、中大兄皇子・大友皇子親子が親唐派であるがために粛清されたのです。

このように、640年代~670年代の日本の歴史は国際情勢を抜きにして説明することはできません。教科書のように断片的な知識の羅列になってしまいます。

大王は象徴的な存在として維持

「乙巳の変」後に大王となったのは、孝徳天皇(中大兄皇子の叔父)です。

大海人皇子でもなければ、中大兄皇子でもありません。どちらも「乙巳の変」後に大王になることには興味がありませんでした。

そのため「孝徳天皇が乙巳の変の黒幕だった」と見る説もありますが、彼が何をしたのか今一つ業績が残されていません。

ということは、大王は象徴的な存在として維持されたと言えます。(厳密に言えば、660年代に空位期間もありましたが。)実際には、大海人皇子や中大兄皇子が中心となって政治していたものと考えられます。教科書どおりに「大化の改新により大王中心の律令国家を目指した」とは言い難いのです。

ちなみに、「大化の改新自体がなかった」とする説もあります。同説によれば、「大化の改新」の内容がほぼ「大宝律令」と同じで、実際に機能していたのも「大宝律令」以降であり、「大宝律令を誇張するための虚構だろう」とのことです。

いずれにしても、「乙巳の変後も、大王は象徴的な存在として維持された」ことは事実です。

今後は国際情勢にも目を向けて視野を広げよう!

国内だけではなく外国にも目を向けると視野が広くなるここまで『日本書紀』に隠された「乙巳の変」の不都合な真実について紹介しましたが、いかがだったでしょうか?

「乙巳の変」を国際情勢の視点で見ると真相が見えましたよね。教科書を勉強するだけでは決して真実にたどりつきません。

その真実とは、外交路線の変革です。

「誰が誰を倒した」結果よりも、「出来事で何がどう変わったのか」が重要です。

「乙巳の変」の真実追究から学べることは、

国際上のリスクを回避するためには、国際情勢を把握し、現在の考え方を見直さなければならない

ということであり、640年代特有のことではなく現在でも重要なことです。

今後は国際情勢にも目を向けて視野を広げてみてはいかがでしょうか。

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